探偵系セラピ レオの手記

オトナのホテルという密室であなたと私のミステリー 長文紹介や想いなどまとめ

性的合意についてのお話

皆様こんにちは

江戸川です

 

久ぶりのブログですが皆様お元気でしょうか??

少しだけ気になる投稿が目に入り、私なりの見解を示しておきたいなと思ったので更新に至ります

結論的には、俺はこうやってるぜ!こう考えてるぜ!という主張に過ぎないと思ったのですが、そういった考え方もあるという何かの参考になればと思いました(*_*)

 

性的合意についての話ですが、異性の交遊においてお互いが納得した上で仲良くするってすごく大切なことだと思いませんか??

人間である以上は男性と女性、しっかりと性別があり性的指向や性的趣向が多様化しつつある現代社会だからこそ、パートナー同士がお互いに「何に対して興奮するのか、何に対して不快を示すのか」の各々の確認が取れているべきではないのかなと私は思っています

 

世の中全ての異性関係において平和的かつ友好的な合意が取れているかというと、当たり前にそうではありません

もちろん円満にやっている異性も数多くいるのかもしれませんが、私個人がよく聞く話だけでも、パートナー同士のちょっとした想いのすれ違いがあってレス状態になってしまっている話や、一方だけがが我慢や演技を強いられているなどの話

フォーマルな場のケースであれば、男性従業員が女性従業員に対して「おそらく大丈夫だろう」と思い発言、または行った出来事がセクシャルハラスメントになっているなど、いわば社会問題として定義されているものもありますよね

現代社会は異性双方の意思疎通を含め合意が上手くいかないという状況に溢れているのではないでしょうか

 

そんな中、女性を対象として接客を行う我々女性向けニャホニャホの業界は、

なるべく女性に寄り添おう、希望を叶えるお手伝いをしよう、快適な空間を提供するよりもまずは相手が苦痛にならない空間を心掛けよう、これらを念頭に走り続けているように見受けられます

今まで江戸川が女性向けニャホニャホを見てきた業界に対する個人的な印象にすぎませんが、少なくとも私には上記のように見えています

これらを実現していく上で、世間では軽視されがちな性的合意、すなわちお客様について教えて頂くと確認をさせて頂く事が何より必要不可欠だと私は思っているのですが、その過程で一役を成すのがカウンセリングです

 

今回これを書くにあたって、私にきっかけを作った投稿に「カウンセリングシートを使うことは素人的である」

「カウンセリングシートは必要ない」「カウンセリングをしなくてもプロなら身体を見ればわかる」というものがありました

初めに、私はこれらの意見に概ね否定的ではありますが、それらの投稿もまた一意見でありますし、

ひょっとしたらツイートインプレッションを稼ぐためのマーケティング手法なのかもしれません

女風に限らず昨今のSNS普及拡大に伴って、男はこうあれ女はこうしろみたいな、未だ性のマイノリティーをガン無視したまるで何かの代弁者なのかなと思う投稿も散見するような時代です

良くも悪くもニャホニャホ業界の布教者になるという大義を持ってそういった投稿および発言をしているのであれば、普段から苺やオタツイに熱を入れている江戸川などより100兆倍業界に親身的であると感じられます

でも私はやはりカウンセリングシートを軽視した考えには賛同はできません

 

まず、相手を知る上でカウンセリングシートはコミュニケーションツールとしての役を担っていますし、私たちにとっては人を洞察する鍛錬になるという側面的な部分も得ているからです

実はカウンセリングシートに書くこと、否定派が仰る“シートに書いてある内容”そのものはさほど重要ではなくて、その手がかりから今日のお相手はどんな人なのか、普段はどういうことを考えているか、実はどんな背景があるのか等を推理し話を広げていくことが最重要コンテンツなんです

それこそ冗談ぬきにまるで探偵のように

簡単に一例ですが、

 

足のマッサージ希望→インドア、アウトドア→どんな話題、普段は○○してるのかな??

会話の仕方→結論から話すorプロセスから話す→性格は○○??

声のトーン→緊張具合→実は初めて?

背筋や何気ない動作→行動心理的には○○か?

暗い空間希望→明るいけど恥ずかしがりや??

目を見て話す、話さない→無意識レベルの距離は○○??

おまかせ項目が多い→自己表現が実は得意でない??

身に着けているものは何色、アクセサリーはどんなの→ひょっとして○○な性格??

話している最中の仕草や体温→もしかして〇〇と●●は矛盾してる??→ということは本当は…

リピーターさんだけどここの項目がいつもと違うな→ひょっとして今日は〇〇??

などなど

こんな感じでお相手の回答の真意や背景を予想しながらも発見を重ね、

今日本当にしてほしいことは何かな、どんなお手伝いができるかなを考えつつ、簡単に大まかなその日の施術の方針や流れを決定していきます

こういった事前プロセスや実際の施術を通して最終的にやんわりとですが、これはして大丈夫かな?の双方の合意(確認)を堅実に得ていくのが大半ではないでしょうか

少し理屈っぽいなと思うかもしれませんが、あくまで方針と流れなのでそこまでぎこちない触れ合いをする訳でもないですし、ある意味自分に考えの持ち札があるということは何かイレギュラーが起きた際に心の余裕があるので有意義に立ち回ることも出来ます

また正直なところ、知る事や確認する事うんぬんは別にして、せっかく遠いところからお足を運んで下さっているお客様と早く仲良くなりたいので、実はお待ち合わせからホテルに向かうまでの何気ない会話からもさりげなくカウンセリングやらプロファイルをしたりしなかったり

施術はお会いした段階から始めているというのがネタバレです笑

コミュニケーションのきっかけとして事前カウンセリングをすることはとても大切なのだと思います

 

こういった話を駆け出しのセラピストさんに研修の場でお話することもあるのですが、

これらはある意味で人物観察や接客業に長けていないといきなりは難しいことだったりするので、最初は深く考えすぎないでほしいとお伝えをしている江戸川です

しかしながら、もしも身勝手な憶測や根拠不在の経験則と共に時間だけ重ねても、いつまで経っても人物を観察し考察する本物の能力は進歩しないものだと思います

勉強や仕事だってそうじゃないですか

「何で?」が一番大事じゃありません?

我々はセラピストであり、カウンセリング主とする資格を得たカウンセラーではないため何もそこまで洞察力を深めなくてもよいのかもしれませんが、出来ることなら質を高めて目の前にいるお客様の役に立ちたいと思うのは社会に生きる人間としての極自然なことではないのでしょうか

エ〇いことだけをするのがセラピなら電マには勝れないかもしれません

質を上げていくという意味では毎回の施術でセラピスト自身が自己採点をすることを推奨しているのですが、採点項目中には自分の洞察と実際の正解がどれだけ近かったかという項目があります

カウンセリングをしてある程度推測をした結果、どれくらい正解だったか、その結果自分がお相手様に何ができたかなどを毎施術事に私も考えるようにしています

これをしないと例え何100回施術をしようが、いつまでも何となくの施術になってしまうんですよね

勉強だって仕事だってPDCAサイクルをして初めて成長していきますよね(計画、実行、評価、改善)

人の心というデリケートな部分において、わざわざPDCAサイクルの事を並べて話すのは少し堅苦しい気もするんですが、あくまでプロとして真心あるおもてなしを目指していくには正直すごく大切ではないのかなと思うんです

 

もちろん、ご依頼される方の中には人にものを伝えることや話すことが苦手で、ましてやカウンセリングシートなんてできたら書きたくないしナイーブだから自分のことを話したくない、カウンセリングなんてしてほしくないし、お話なしで施術を受けたいという方もいらっしゃると思います

そういった方についてはオールお任せで大丈夫ですよという前置きで実際に施術をしながら探っていくこともたくさんあります

ですが、結局それすらも今までの人間観察とコミュニケーション方法の蓄積、ベースがあって成せることなのかなと

 

重複しますがやはりカウンセリング(カウンセリングシート)を行い、お相手を知り確認をさせて頂くことはとても大事だと思います

これを読まれている方の中には、人の感性に対していちいち論理的見解が過ぎると思われるかもしれません

でも、プロだから身体を見ればわかるとか、濡れているから性的に感じているなんて考えの方が傲慢で暴理になってしまうのではと私は思うかな

フォーマルなカウンセリングをしないことを何も悪だなんて言わないので、カウンセリングシート等をきっかけにコミュニケーションを取りながらお互い合意の上で安全に楽しむという選択をとることを悪いみたいに言わないでよって思っちゃいました

常に、今大丈夫?辛くない?の謙虚な気持ちと疑いの目を持って接したいです

 

余談ですが、

円滑でない意思疎通や合意の不一致、根拠のない判断など、これらコミュニケーションを阻害しているものの背景には日本ならではの、相手や自分自身を信頼することが美であるという考えが大いに影響しているのではないでしょうか

家族だから信頼する、恋人だから信頼する、友達だから信頼する、セラピストだから信頼する、自分だから信頼する

その結果コミュニケーションや確認の仕方がより一層不器用になってゆき、ある地点でお互いまたは片方の不満が爆発する

辛いですよね

何かを信頼するという行為は同時にその何かを知ろうとする事の放棄であるのかもしれません

本当に愛おしくて尊い存在なら、その人や物のことをもっと知りたい!もっと教えて!と思いませんか?

親しい仲ゆえの安心感みたいなのは事実あるのかもしれませんが、大切な人の「大丈夫」は大丈夫じゃないんです

 

 

さらに余談ですが、

「カウンセリングシートを書いてもらう」そして「それを“一緒に見ながら”確認する」というのもこの世界ならでは文化であり、楽しみ方の一つなのではないでしょうか

具体的には言いませんが………笑

 

終わり